以下は2024年冬に「篠澤広に物理学を解説してもらう合同」で発表したもののWeb再録です。書いたのが24年夏なのでNIAより前とかの時間の話です。
一部Webで読みやすいように整形し直しています。間違い等あればご連絡ください。
1 導入
篠澤広は、アイドルである。いや、アイドルとは言っても、未だライブを最後まで完遂できないような体力の持ち主であり、その才能を疑う者のほうが多い、アイドルもどきのような少女である。しかも、全く才能のないことを自覚しながらも、それがアイドルの面白いところだと宣う、奇矯な少女である。
「ところが」というべきか「どおりで」というべきか、彼女のような人物にはまれな才能があるものである。篠澤さんは生まれこそ秋田県秋田市であるが、四月に初星学園に入学する以前はアメリカの、それもマサチューセッツ州にあるという高名な大学で、物理学を専攻していたそうだ。俺は海外など生まれてこのかた訪れたことはないから、そこでの様子は推して知るべくもない。ただ、ときおり、彼女が図書室の書架を前にして床に座り込み、呼吸を忘れているのではないかと思うくらい静かに読書しているのを見る。琥珀のような眼をじいっと手元の本に向け、十数秒ごとにすらりと細い指で次のページをめくる。彼女の顔は喜びと緊張の間の微妙な表情をたたえ、肌は上等な大理石のようにわずかばかり青白く光る。そのような姿を見るにつけ、なるほど確かにと得心するのである。
ある秋の日のことである。午後二時の空き教室は、朝夕などの肌寒さに比べればまだまだ暖かさが残っている。ややもすれば暑いくらいだ。俺は、篠澤さんに物理を教えてもらう、という約束をしてある。「年下である篠澤さんに何か教わってみたい」という己が下賎な欲をもっともらしい言葉に包み、これを彼女に頼み込んだのだ。目の前で、シンプルなベージュ色のノートを開き、講義の準備をする彼女をじっと見ながら、普段の彼女とは雰囲気が少し違ってかわいいな、などと考えていた。
2 相反するふたつの理論
「……始めるよ」
そう宣言し、篠澤さんは唐突に俺に質問をした。
「まず、プロデューサー。『実在』って何だと思う?」
「いきなり哲学的な問いですね……」俺は少しばかり考えて、「そうだな、この世界に物質として体があることでしょうか」と言ってみた。
すると、彼女はこう返す。
「つまり……この宇宙空間のどこかでいくらかの体積を占めていればいい?」
「そう思います」
俺がそう答えると、彼女はいたずらっぽく、小さな口角をかすかに上げ、こう聞いてきた。
「じゃあ、例えば光は実在しない?私たちを照らす光に体積を定義できるかな。プロデューサー」
「む……難しいですね」
これには反論しようがない、ではどう定義し直せばいいのかと考えていると、篠澤さんは立ち上がると、ホワイトボードのペンを細い指で一本手に取り、話し始めた。
「物理学の理論は……物理量のようすを予言するための理論。つまり、『この大砲の弾はどこに着弾するか』や『これに電流を流すとどれだけの熱を生むか』というふうに、位置や熱量といった『測れるもの』のふるまいに関する疑問を、実験をしなくても明らかにするために理論がある」
ペンを振るいながらここまでを一息で言い切り、
「そして……昔の物理学者は、物理量の実在について、こう考えていた」
と続けた。板書の内容はこうだ。
全ての物理量は、実在する。つまり、なんらかの確定した値を持っている。
「直観的。例えば、転がるボールは位置や運動量として何らかの値を持っているはず。これらは実在するし、その挙動を方程式で予測するのが物理学だと思っていた。こういう古典的な考え方は、局所実在論って名前がある[1]」
「なるほど」
「ところが、」彼女はそう言って、俺の目を見る。俺はややぎょっとして、白板に目を逸らす。
「物理学が進歩してきて、新たな理論が現れた。それが量子論。今まで説明できなかった現象がこの理論で紐解けたりして、とても有用だった。……ただし、量子論では、こんなことを主張する」
一般に、物理量は確定した値を持たない。
「これは……さっきの主張と矛盾してる。量子論では、物理量は実在しないと言ってるのと同じ。だけど、今までの局所実在論では説明できなかった現象を、量子論では説明ができる。そうなると、どっちが正しいんだろう。どう思う?プロデューサー」
「えっと……物理量が確定した値を持つのか、持たないのか、実際に確かめてみるしかないと思います」
「正解」彼女は少しつまらなそうに続ける。「物理学は結局、実験で決めるしかない。物理量の実在を、どう確かめようか」
3 思考実験
「見当もつきません……」
そう答えた途端、篠澤さんはいきなりにっこりと笑い、こう持ちかけてきた。
「うれしい。せっかくだから、思いつくまで考えてもいいよ。プロデューサーが苦しんでるところ、見たい」
「俺は篠澤さんが教えてくれるところが見たいです」
「ふふ……ダメ」
押し問答。俺は、この問題に対して手掛かりとなるようなアイデアもない。ヒントがあっても映画一本分ほどの時間頭をかかえることになりそうだと直感したから、ここは素直に教えてもらいたい。
「では、俺が考えてる間、篠澤さんが片足立ちの練習をしてくれるなら、俺もがんばって考えます。二人で苦しんだほうが、楽しいですよね」
「うーん……とっても楽しそうだけど、それだと最後まで教えられなくなっちゃうと思う」
「それでは困るので、ここは一旦先に進みませんか」
「……仕方ないね。少し天下り式だけど、こういう実験がある」
俺はうまく言いくるめられたことに胸をなで下ろし、彼女の話の続きを聞く。
- 十分離れた地点A, Bに2人の観測者がいる。
- 地点Aでは、測定器の設定のどちらかを使って物理量を測定し、測定値としてのいずれかを得る。
- 地点Bでも同様にのどちらかを使って物理量を測定し、測定値を得る。
- 2人はそれぞれ、自分が使った設定と測定値を記録する。
- 2〜4を何度も繰り返す。
- 測定後、2人のデータを突き合わせてを計算する。
ただし
彼女は、二、三分かけて、ホワイトボードにこう書き込んだ。俺はその間、長い髪が揺れ、かわいらしい文字が少しずつ現れてくるのを楽しむ。教室の窓から射し込む陽光が篠澤さんの髪の表面に反射するようすは、まるで朝焼けの湖のようだとさえ思う。文章の意味は……分からない。
「さっきの問題は、実験的な文脈ではこういう風に言いかえられる。『測定値がばらつくのは、局所実在論に基づく隠れた変数の存在なのか、量子論に基づく本質的な不確定性か』」
「どういうことですか?」
「局所実在論で、ある物理量は確定した値を持っているはずなのに測定値がばらつくとき、考えられるのは、条件が実は揃っていないこと。つまり、隠れた変数があって、その値が毎回変わっているからと説明できる。対して、量子論では、物理量には本質的にばらつきがあると考える」
「はあ」
篠澤さんの言及した二つのばらつき方に、違いはあるのだろうか。
「この二つでは、『相関』の強さが変わる。それを測るのが。この数式の意味は分かる?」
「いえ、何がなんだか……」
「は、設定で物理量を測定するときの期待値って意味。だから、は、物理量の積の期待値[2]」
「それだと、は物理量の積の期待値を足したり引いたりしているもの……?」
「その認識でいいよ。設定をいろいろ変えたときの期待値を見てる」
4 局所実在論の場合
「まずは……局所実在論。が取りうる値の範囲を考える。『確定する』というのは、隠れた変数を全て知っていれば、その値を確実に予測できるという意味。つまり、隠れた変数をとすれば、物理量がその関数として書けるということ」
「これと『局所性』、すなわち、地点Aで設定を変えたのがBに影響したり、その逆はないということを反映させて書けば、こう書ける」
篠澤さんは、さっき書いた式を消して書き直す。
「これらを用いれば、その積の期待値は、の確率分布を用いてこうなる」
「これを踏まえて、について考えるね。まず、式がごちゃごちゃしないようにこう略記することにする」
「それで、とりあえずの値がとる範囲を求めると」
「というような計算で、こういう式を得る」
「この式にをかけて、和を取れば」
すなわち
「ここはもうただの計算だし、説明することもない。簡単。そうでしょ?プロデューサー」
彼女はつまらなそうに聞いてくる。そんなことは全くないと思うのだが。
「ちなみに、これは発見者Clauser, Horne, Shimony, Holtの頭文字を取って、CHSH不等式って言われてる」
5 量子論の場合
篠澤さんは、俺の座っている席にとことこと近付いてきた。そろそろ立ちっぱなしの限界が近いのか、足元が少しおぼつかなく見える。薄手のロングコートの裾が、ひらひらと舞いながらやってくる。
そうやって見とれていると、次の瞬間、彼女が伸ばした両手は、俺の頬を挟み込んだ。
驚いて彼女の顔を見ると同時に、冷たい。いい匂いがする。香水だろうか?桃のような、石鹸のような……などと考えていると、篠澤さんは、こう聞いてきた。
「プロデューサー、量子論はどのくらい分かる?ブラケット記法くらいは知っててほしい」
「……すみません。知りません」
声がやや上ずってしまったが、正直に答える俺。突然、顔のいい女性にこの距離で質問されると、その内容がなんであれドキドキしてしまう。
「この章は分からなかったら[3]、聞き流してくれてもいい。いちばん最後の結果だけで、ストーリーは分かるから」
了解の意味をこめて軽くうなずくと、彼女は
「……始めるね」
と言い、ホワイトボードの前に戻った。
「演算子形式の量子論において、物理量はエルミート演算子で表す。みたいに。まず、を0に設定したときのを考えよう。おさらいすると、実験の流れは、こうだったね」
彼女は、少し前に書いた板書を指さす。
- 十分離れた地点A, Bに2人の観測者がいる。
- 地点Aでは、測定器の設定のどちらかを使って物理量を測定し、測定値としてのいずれかを得る。
- 地点Bでも同様にのどちらかを使って物理量を測定し、測定値を得る。
- 2人はそれぞれ、自分が使った設定と測定値を記録する。
- 2〜4を何度も繰り返す。
- 測定後、2人のデータを突き合わせてを計算する。
ただし
「地点Aと地点Bの測定値を使って、それを必ず得るときの状態を、こう定義する」
「例えば、のときは、と書く。これは、との『同時固有状態』と言われる。[4]」
「状態の定義から、になってほしい。そう考えると、」
「……と書くのが自然」
「これを、に拡張する。を変えて測定すると、測定結果が変わるんだったね」
「例えば、こういう風に正規直交基底を回転させることが考えられる」
「このもとで、のときみたいに定義すると」
「という風に拡張できる。も同じ手順で導出できて[5]、こうなる」
「そして、粒子の状態は、こうだったとする」
「このときの相関を計算する[6]と、こうなる」
「これを使ってを書き直せば、こうなるよね」
そう言って、彼女はようやく、俺にでもなんとか理解できる式を書いてくれた。
「このは、例えば
というふうにすれば、になる。破れてるね、CHSH不等式」
「実際に、これが量子論で取りうる限界になっていて、チレルソン限界って呼ばれてる」
6 まとめ
「まとめると、は局所実在論と量子論とでそれぞれ考えたとき、異なる値をとりうる。もし、物理量は確定している、言い換えれば、『神はサイコロを振らない』なら、はの範囲におさまるはず。だけど、そこからはみ出せば、『神はサイコロを振る』、すなわち量子論の方が正しい理論ってことになる。この論文が出された後、フランスのアラン・アスペ博士が実験的な検証を行って、1982年には『Experimental Test of Bell's Inequalities Using Time-Varying Analyzers』という論文で、不等式が実際に破れていることを示した。2022年に、その功績でノーベル物理学賞」
「物理量は実在しない、というのは……不思議ですね」
「そうだね。古典的な力学や電磁気学が素朴に仮定していた『物理量の実在』が、現実には成り立たなかったのは、不思議な結果。局所実在論と量子論の本質的な違いを明らかにし、後者の必然性が明らかになったこの実験は、物理学史において最も深遠な発見の一つ」
彼女はそう言って、ノートをパタンと閉じ、ペンをホワイトボードに戻す。
「正直、かなり興味深い内容でした」
下心丸出しで年下のアイドルに勉強を教わろうと思っていた自分が本当に恥ずかしい。
「まだ。最後に、一つだけ」
「何ですか?」
「この実験は、実験装置の局所性が保たれないと成り立たない。つまり、非局所な実在論は、この実験では否定できない。その理由を、プロデューサーに考えてほしい」
「これが、最後の演習問題」
7 参考文献
-
清水明. (2004年). 量子論の基礎: その本質のやさしい理解のために
(新版). サイエンス社. -
清水明. (2006年). EPRパラドックスからベルの不等式へ.
https://as2.c.u-tokyo.ac.jp/lecture_note/kstext04_ohp.pdf
(2024年10月8日閲覧) -
Physics Lab. 2021. (2021年). 局所実在論とベルの不等式.
https://event.phys.s.u-tokyo.ac.jp/physlab2021/articles/1hk-9xt23/
(2024年10月8日閲覧) -
Physics Lab. 2021. (2021年). 量子論とベルの不等式の破れ.
https://event.phys.s.u-tokyo.ac.jp/physlab2021/articles/g6xhsg3xs0h9/
(2024年10月8日閲覧)